伊丹のおくりびとブログ

仏の私と鬼の私

鬼は私の中にいます

 

 

Facebookで節分に毎年投稿している

鬼は内、福は外記事

以前にもブログに書いたのは

 

外から降りかかってくる「鬼」の話

その時の記事はこちら

 

この記事の中でも書かれてる

鬼=災=社会的難儀

という観点からの鬼(難儀)は

大凡、「人」だと思うのです。

 

そして、以前ブログのどこかに書いたと思う

「怒らなくなった」事

 

例えば居酒屋で

スタッフさんがお盆いっぱいのジョッキを

僕の膝の上でひっくり返してしまい

ズボンもチョッキもビチョビチョになったとしても…..

 

例えば会議で

綿密に勧めてきた議事が

一人の意見で振り出しに戻されたとしても

その言い方に優しさを感じられなかったとしても

 

腹を立てる事ではないし

怒る事でもない

 

上記の例え話しの現場に一緒にいた友人は

「いや、普通怒るでしょww」

って言ってたけど

その位の事で怒りのスイッチは入らないのです。

 

そう、

 

怒るか怒らないかは

された事、受けた事の問題じゃなくて

自分自身の心の問題なのです。

 

戦後25年目、1970年の日本に生まれ

イケイケどんどんの社会で育ち

まあまあ雑っだった周囲の大人の

「腹を立ててる人の姿」と

その横で「恐れ怯えている人の姿」を

肌で感じながら育った幼少期

 

子供心に

「怒る人は嫌い」

そう思っていた

 

かといって「仏のはやみん」が幼少時に生まれたはずもなく

僕自身も雑に成長して行く中で

怒り、腹を立て、多くの人を傷つけて来た

心を痛めながらも

自分の心をコントロールしきれなかった。

 

それが

 

10年くらい前から

どんなことが起きても怒らなくて済むようになった

 

きっかけは何だろう。。。

 

両親の死か

子供が産まれて親になった事か

仕事で触れる仏教に深く傾倒したからか

社会人として生きて行く上で

それが最善の処世術だと思ったからか

大切なひとの涙だろうか

同友会での学びだろうか

死して湧き出る母の教えだろうか

 

きっときっかけはその全てだし

自分で気付いてな所でも

色んな影響を受けているんだと思う。

 

怒るのは

腹が立つのは

心に住む鬼が首をもたげたから。

 

そのタイミングによっては

全く同じことを受けても

怒らない時と怒ってしまう時があるのも

心に住む鬼のスイッチが入るきっかけになるかどうかの違い

 

自分自身を振り返ってみても

腹を立ててた時は

全部人(外部)のせいにしていた。

 

「なんであいつにあんな事されなあかんねん」

だ。

 

怒りたくて怒ってっる人なんて居ない

 

「なぜあの人はそうせざるを得なかったんだろうか」

「どうすればその課題(問題)を解決できるだろうか」

 

そう思えるようになったのは

嘆異抄の中で読んだ

罪を犯さなくて済んでいるのは業縁(宿縁)にないだけだと

唯円坊に言ってる親鸞さんの言葉に共感したからだろうか

 

腹を立てずに済んでいるのは

腹を立てるような縁にないだけで

縁が整えば僕も腹を立てるかもしれない

僕の中に住む鬼もその首をもたげるかも知れないんだ。

 

大切なのは

 

鬼も仏も

どっちも自分の中に居る事

その事を知っておく事

 

何かが起きた時

自分の事より相手の事を考えると

腹を立ててる場合じゃない。

 

そう言いながらも

僕が気付いてないだけで

僕の中の小さな鬼は

誰かを傷つけているかも知れない

 

いわゆる

「はやみんも悪気はないんだろうけどね…」

というやつ。

 

悪気のないそれほど

タチが悪いって言いますもんね♪

 

さてさて、新しい一年の始まりに

帯を締め直す良い機会を頂きました♪

 

2022年もええ一年にしていきましょね♪

 

最後までお読み下さりありがとうございました♪

 

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